「ふるさと」とは物理的な場所というよりはもっと抽象的な

愛媛

「ふるさと」といった概念は、私の場合、室生犀星の詩の「ふるさとは遠きにありて思ふもの」に尽きる。

私は、愛媛で生まれ愛媛で育った。大学入学を機に東京で一人暮らしを始めたのだが、高校生の時までは「ふるさと」などとの概念を持ち合わせていなかった。

東京での生活を始め、初めて私の「ふるさと」は愛媛なんだと強烈に感じた思いがある。

これは、自己紹介を何度も何度もした結果なのか、はたまた、周りに色々な地域の出身やがおり、そのため自分の出身地域を意識するようになったのか、それとも、距離的なものか精神的はものかはわからない。

ただ、「ふるさと」というのは、精神的な概念のように感じる。

その場に留まっている限り認知し辛いものではないだろうか。

当時、東京で「ふるさと」を強烈に感じたのは、距離感というよりも、親元から離れたという精神的はもの、また、私の近くに取り巻く人たちが持つ背景、つまり、情報的はものが大きいと思う。

というのも、私は、半年ぐらいベトナムで暮らしたことがあるが、その際、日本や愛媛に「ふるさと」をほとんど感じなかった。

日本人と接することは少なく、ほぼ毎日ベトナム人に囲まれて過ごしていたので、もう少し望郷の念とかそいういうのを感じても良いと思うのだが、それはなかった。

これは、距離はかなり離れているし、また、ホテル住まいだったので住む場所もかなり変わり食べ物を変わったはずだが、高校生から大学生になった時に比べると、精神的には大きな変化ではなかったのではないかと今にしては思う。

今いる場所が、精神的、情報的に遠くに離れた時に「ふるさと」を感じる。

ならば、物理的にはそこにいながらも、情報的には遠くの場所へ進んでいった場合、「ふるさと」を感じることになるのだろうか。

そんなことをふと思った。

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