コードは誰のために美しくなるか—GPT-5とエンジニアの生存戦略
- 16 Aug, 2025
ジムへ向かう車内でレコーダーを回し、帰り道で締める——この番組の定番スタイルで第49回を収録しました。 次回はいよいよ50回です。引き続き50回記念のコメントを募集しています。 質問でも応援でも雑談のタネでも大歓迎です。アナリティクス上は固定リスナーが「数人」は確実にいらっしゃいます。 僕らが自作自演のコメントに走らなくて済むように、ぜひあなたの声をお寄せください!
GPT-5は「賢くなった」のか、それとも「体感が薄い」のか
本題はGPT-5です。数日前に公開されたばかりですが、評価は割れています。「前よりバカになった」と感じる方もいれば、「大きな変化は分からない」という方もいます。竹内はCursorでGPT-5を有効化したものの、現時点では体感に大差はないと言います。今回の象徴的な変化は、ユーザーによるモデル指名の自由度が下がり、内部の自動切替が増えた点だと感じています。以前はo3などラベルの付いた最上位モデルを直に選べましたが、今は「GPT-5」「5 Thinking」といった抽象的な選択肢の裏でシステムが状況判断しているようです。ブラックボックス化は、最適自動選択という恩恵と、手応えの希薄化という違和感を同時に連れてくるのだと思います。
僕の使い方はそもそも「雑」です。長いプロンプトで厳密に拘束するより、エラーメッセージと意図を短く渡して高速に回します。 そのせいか、AIが“余計な正しさ”で僕の変更を元に戻し、軽く苛立つこともあります。 相手が人間なら言葉を選びますが、AI相手だとつい感情が乗ります。 こうした慣れが対人コミュニケーション筋を衰えさせるのでは、という不安も少しあります。 「送信前にAIで文章を整える」運用をすれば、緩衝材としてのAIは有効だと感じます。
「ジュニアの階段」は消えたのか、短縮されたのか
竹内が参加した飲み会で出た話題の延長として、 「AIによってジュニアから中堅へのラダーがなくなった」という指摘がありました。 僕の見立ては少し違います。学習時間が短縮された結果、ジュニアでも早く実戦投入できる領域が増えたのだと思います。 新しい言語やフレームワーク(Reactなど)への初速は確実に上がっています。 一方で、「AIが生成したコードの是非をどう見極めるか」という判断の質には依然として差が出ます。
竹内の現場には、Claude Codeで「自分ではほとんど書かない」スタイルに移行した同僚もいるそうです。 竹内はCursor派で、AI出力に手を入れながら双方向に詰めるほうが好みとのことで、僕も同意します。 ここに、AIに任せ切る派とAIを道具として握り続ける派の分岐があります。 前者が増えるなら、ロジックの単純修正レベルではジュニアとシニアの差は縮まっていくのかもしれません。
「人間可読」は老害なのか、いま必要な安全装置なのか
この数年、僕らはDDDやクリーンアーキテクチャを「人間が理解しやすい構造」として実践してきました。 AIが主役になるなら、その美学は時代遅れになるのでしょうか。竹内はまだ受け入れきれていないようです。 可視性の低いブラックボックスがシステムの主要部を占めると、デバッグ戦略が崩れます。 再現手順から原因に迫る古典的なアプローチが取りづらくなるからです。 竹内は「読みやすさの押し付けを続けると老害になるかもしれない」と危機感を口にしつつも、次のように整理しています。 既存プロダクトを確実に良くしたいなら、人間可読性はまだ捨てられない。 一方、ゼロイチのAIネイティブ開発であれば、AI最適読みの“使い捨てコード”哲学も戦略になり得ます。 移行期の現実解は、二刀流だと考えます。
レビューとテスト:モデル多様性で「嘘」を削る
竹内の現場では、生成をCursor+Claude系(最近ではGPT-5も?)で回し、レビューはGeminiに差し替えるなど、あえてモデルを分けているそうです。 異なる分布のモデルにクロスチェックさせるのは、ハルシネーションの“位相差”を利用する発想だと思います。 さらに、AIにテストコードを書かせ、人が要件とのアラインメントだけ確認する運用も思案中とか。 自然言語のテストケースと生成テストの乖離が課題ですが、当面は複数モデルの相互監査+人間の最終判断で凌いでいける可能性も。 要するに、自動化の比率は上げつつ、最後のハードゲートは当面人が握る、ということです。 マニュアルテストが“最後の砦”として残る可能性は高いのかもしれません。
「将棋はAIが強い、コードもそうなる?」への違和感
「将棋でAIが人を超えたのだから、コードも最終的にAIのほうが高品質になる」は直感的に理解できます。 ただ、将棋は閉じた完全情報ゲームで、最適化の地形が比較的平滑です。 プロダクト開発は要件・運用・組織構造まで絡む開放系です。 その分、時間軸は将棋より長くなるはずです。とはいえ、“AIがAIを改善する”ループが本格化すれば、品質曲線が一段傾く可能性はあります。 ここでも鍵は、人間側が責任境界をどう再設計するかだと思います。
仕事は消えるのか:ホワイトカラーとロボットの間
ホワイトカラーの仕事はどこまでAIに侵食されるのでしょうか。 僕は「物理が絡む限り、ロボティクスの成熟がボトルネックになる」という立場です。 人型ロボットが人並みに動き、AIがそれを統合的に操れる段階に至れば、ブルーカラーも含め仕事地図は塗り替わります。 ただ、それが僕の現役中に来るかと言われると、やや懐疑的です。 制度面ではベーシックインカムの議論が避けられなくなるでしょうが、決着は簡単ではないでしょう。
一方で、芸術やエンタメはどうでしょうか。以前の僕は「大半はAIに置き換わる」と見ていました。 今も基本は変えませんが、生身の刹那性には代替困難な価値が残ると感じ始めています。 スポーツのピークが短く不可逆に衰えるからこそ価値が宿るように、ライブの“そこにしかない一回性”は強い。 AIが個々人に最適化した音楽を無限に供給できる世界が来ても、推し続けられる人間は残るはずです。
僕の生存戦略:農と林に帰る準備
最後に個人的な話です。僕には山があります。父方と母方、それぞれに受け継ぐ山林が残っています。 戦後しばらくはヒノキやスギの植林が当たり前で、木を切っては学費に充てたという家の伝承もあります。 今は海外材に押され、伐り出し路網も乏しく、収益は簡単ではありません。 木を切るより、運び出す物流のほうが難所だからです。 それでも、手入れを再開し、売れる状態をつくり、また植える——このサイクルに戻せれば、黒字化の余地はゼロではないと考えています。AIがオフィスの仕事を奪い、ロボットが現場を侵食する極端な未来が来ても、土と森に還る道を一本握っておきたい。農業と林業は、僕にとって「もしものため」の実存的オプションです。
いまの結論と、次回への宿題
現時点で僕が握る舵はシンプルです。人間可読性を軽んじません。そのうえで、生成・レビュー・テストの各段に異種モデルを差し込み、自動化できるところは容赦なく自動化します。ゼロイチの新規では、AIネイティブの「使い捨て前提」も実験します。移行期の足場は、しばらくは二重化しておくつもりです。
そして50回記念です。これを読んでいるあなたに、あらためてお願いがあります。 質問、AI時代の働き方の悩み、推しの開発手法、Cursor/Claude/Geminiの使い分け、テスト運用——何でも送ってください良いのでコメントを送ってください。 次回、その声から始めたいと思います。